若い頃、街中のコーヒー専門店で働いていました。二十坪三十五席ほどの店です。ネルのフィルターで一杯点てという難しいコーヒーの入れ方で、入社しても一年間はフロア周りと皿洗いで二年目から賄いのコーヒーを点てさせてもらえます。
お客様のコーヒーを点てるのは三年目からという厳しい店でした。
週に二~三度おいでになる五十代の紳士がいまして、いつも夕方五時過ぎ、きちんとスーツを着て一人で来店していましたので、公務員か公社などのお勤めかと思います。
お水を出して注文を聴くと必ず「ジャマイカ」と一言仰るだけで他はほとんどお話をしません。本や新聞を見る訳でもなくただじっと湯気のたつコーヒーを楽しんで十五分ほどで帰られます。
ひと月も経つとその紳士とも顔なじみになり私の方から「いつものですね」と注文を聞くようになりました。
その内に席につくとお客様の方から「いつもの」と仰るようになり二年が経ちました。
三年目、いよいよ私もカウンターでコーヒーを点てるようになりました。ネルのフィルターを片手に、ポットのお湯を注ぎます。
手が休まるとカウンターやフロアを目配りして店内の様子を窺います。
ドアが開きあの紳士がお出でになりました。新人のウェイターがお水を持っていきます。
紳士は「いつもの」と言いかけて新人のウェイターでは分からないかと注文のコーヒーを言おうとしましたが二年間「いつもの」で通してきたものですからコーヒーの名前が出てきません。
メニューを見れば良いのですがそれも長い習慣で思いつかないようです。
上目づかいに記憶をたどっているようです。ジャまででました。
「ジャ・ジャ」といって後がでません。すこし焦っている様子です。
「ジャ・ジャ・ジャ・・ジャバ・・・」
違ったようです。私はコーヒーをたて終わると急いでサポートへ行きました。
「いつものですね。」
お客様は少し照れくさそうににっこりしました。