2014年9月25日木曜日

由布岳の事を考えてみた-3

由布岳の開山は性空上人(しょうくうしょうにん)とされている。性空上人は平安時代中期の人で敏達(びたつ)天皇の血を引く橘諸兄(たちばなのもろえ)を先祖にもつ名門に生まれた。橘諸兄は奈良時代の人で正一位、左大臣にまで登り詰め、東大寺大仏建立にも大きく関わった。


性空上人は幼少より仏縁があったが家門のため出家は遅く三十六才の時であった。天台宗慈恵大師に師事して後、日向国霧島山や筑前国背振山で三十年修行し播磨国書写山に西国三十三所霊場の一つ圓教寺を開いた。 

九州の山には性空上人開山の伝承が多く残されているが由布岳もその一つである。


上人は由布岳山頂の岩窟で一千日の行を行った。 満願を迎えたとき由布岳が大音響で法華教を唱えた。上人は鳴動する岩で観音像を刻み山腹の大岩の上に祀った。その岩を観音岩という。


慶長元年(千五百九十六年)豊後を大地震が襲った。慶長豊後地震とよばれ、由布院では由布岳裾野の小山が崩壊して一集落が壊滅するほどの災害であったという。


地震のあった夜、一人の村人が由布岳の山腹に光るものをみた。翌朝光っていた所へ登ってみると観音像が転がり落ちていた。村に持ち帰り麓の寺に祀られた。それが仏山寺の秘仏として祀られている観音像である。


上記、由布岳開山の話は若い頃に読んだ本の記憶で、その本の題名も憶えていない不確かなものである。 仏山寺のホームページには以下のように紹介されている。


佛山寺の歴史
 今より約一千年前の一条天皇の御代、性空上人、九州巡錫中霧島神社に参籠するに御神宣あり、その御つげによって由布岳の山腹にて誦経したらば、「具一切功徳慈眼視衆生」(観音経の一説)と鳴動する岩あり。
その岩にて観音像を刻して祀ったのが始めと伝えられる。以来、全盛時には由布院内に末寺十数ヶ寺を有する由布の修行霊場の本拠地とされてきたが慶長元年の大地震により打撃を被ったため麓の地(現在の地)に伽藍を移し、新たに臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺院として再出発した。
 性空上人の刻した由布霊山観世音菩薩は今も観音堂に安置され、秘仏として三十三年に一度ご開帳される。


鹿児島霧島神宮のはずれにある性空上人墓所

 

2014年9月23日火曜日

由布岳の事を考えてみた-2

 湯布院町の郷土史家、志手駒男氏は五万分の一地図をもとに地形を調べて由布山が一番遠くから見られるのはどこか調べてみたら山口県の光市だったという。由布山は豊後富士とも筑紫富士とも呼ばれる。この何々富士と呼ばれる山は全国にあるが、中には富士山と似ていない山容のものもある。これは目印になる、また象徴性のある山、特別な山もそう呼ばれた為であるが由布岳はきれいなピラミッド型である。

 私は実際に光市の田布施町にある標高三百メートルほどの石城山の山頂から由布山を見たことがある。その時は瀬戸内海の大三島、宮島、四国の石鎚山、九州の国東半島、その向こうに由布岳、鶴見岳という壮大な眺めであった。


由布岳(左)と鶴見岳(右) 由布市廻間町より

 

2014年9月20日土曜日

由布岳の事を考えてみた。

 由布岳は古くは木棉峰(ゆふのみね)と呼ばれ嘉字(めでたい文字で表記)により柚富峰(ゆふのみね)と記された。豊後風土記には栲(たく)の樹が多く木棉(ゆふ、古代の和紙)を産したので柚富郷(ゆふのさと)、柚富峰と呼ぶとある。

 大分市の郷土史家加藤貞弘氏はユは「聖なる地、祭り場のある処」、フは接尾語で「~があるところ」で聖なるものがある処、神聖な雰囲気の漂う地、という意味であり聖なるものとは由布嶽であると述べている。

 神事を執りおこなう祭場をユ(齋)ニワ(庭)といい、神への捧げ物や依代(よりしろ)としても用いられる御幣(ごへい)は古代は木棉が使われていた。そしてユフはユウでありムスビである。髪を結う(ゆう)と云い、帯を結ぶ(むすぶ)と云う。ムスビは日本古来から万物を生み育てる霊力と考えられた。また帯を結ぶことによって結界を作り身を守る禁厭(まじない)とされ、旅立つ人を松ヶ枝を結び無事を祈る禁厭ともされた。万葉集では恋唄などに帯や松ヶ枝を結ぶ和歌が多く歌われている。時代劇で御内儀が主人の帯をギュッと締めて送り出すシーンはその名残であるかもしれない。