2015年9月30日水曜日

山想雑記、この夏のマッターホルンの出来事、


この夏、アルプスの名峰マッターホルンで日本人に拘わる二つの出来事があった。

マッターホルン

ひとつは1970年にこの山の北壁に臨み行方不明となっていた二人の遺体が45年ぶりに発見されたというものである。
二人は滑落し、氷河のクレパスへと吸い込まれていったのであろう。

この数十年の温暖化による氷河の後退によって深い氷の中から遺体が現れたのだ。
しかし温暖化による氷河の後退だけではない。氷河はその字の如く氷の河である。
目に見えないが少しずつ、少しずつ、流れている。
山腹の氷も数十年の年月をかけて麓の谷に達し渓谷の流水となる。
半世紀以上も前の登山家の遺体が氷河の末端で発見されるのは珍しい事ではない。

1970年というのは私には思いで深い年であった。二人が遭難したその年、私は16歳で高校二年生だった。日本中が大阪万国博覧会に湧き上がっていたが、私は夏休みを大阪の万博会場ではなく日本アルプスの穂高連峰ですごしていた。
30キロをこす重いリックサックを背負って、九州の大分県という田舎から、瀬戸内海を船で大阪まで行き。汽車を乗り継いで穂高岳の岩壁を登りに行ったのだ。

1970年 穂高連峰、涸沢にて
前年、登山家の兄に連れられて、槍ヶ岳から北穂高岳、前穂高岳の縦走をし、この年は岩壁の登攀を狙って上高地へ入り、兄のリードで屏風岩の1ルンゼを登攀。先輩の岡崎さんのリードで井上靖の「氷壁」の舞台となった前穂高岳東壁、北穂高岳滝谷など幾つもの登攀に成功していた。
そして、その先にはヨーロッパアルプスのアイガー北壁やマッターホルン北壁への思いがあった。
その頃には、すでに幾多の日本人登山家がアルプスの日本人初登攀という栄光を勝ち取っていた。
私は既に遅れて来た年代であった。
しかし、彼らの登攀記録は私のアルプスへの夢を膨らませた。

今の若い人達には信じられないだろうが、日本は1964年3月まで一般人の海外渡航は禁止されていた。
アルプスの岩壁を夢見ていた登山家は海外旅行が解禁された1964以降、日本人によるアルプスの初登攀という栄光の先陣争いに我先へと渡欧した。
彼らは決して裕福ではなかった。どちらかと言えば高卒や中卒の貧乏青年だった。
すこしでも安く渡航費をまかなうために、五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」に出てくるようにナホトカへ船で渡り、シベリア鉄道でモスクワへ行き、ワルシャワから西欧諸国へと渡欧した者も多くいた。

若き登山家達の野望は千メートル以上の巨大な岩壁を誇るアイガー北壁、マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁の三大北壁に集中していた。中でも1800メートルの岩壁を持つアイガー北壁が最大の標的であった。

1965年7月、芳野満彦、渡辺恒明によって、3大北壁のひとつ、マッターホルン北壁が日本人として初めて登攀された。因みに芳野満彦は新田次郎の山岳小説「栄光の岩壁」の主人公のモデルである。


渡辺恒明  芳野満彦

しかし、芳野満彦はこの時足を痛め、本命であるアイガー北壁を断念せざるを得なかった。パートナーを失った渡辺恒明はアイガー北壁の日本人初登攀を狙っていた一匹狼の高田光政と急遽ザイルを組んでアイガー北壁へ臨んだ。

アイガー北壁での渡辺恒明

そして、1800メートルのこの岩壁の頂上300メートル下で渡辺は滑落し垂直の壁に宙吊りになったのだ。身体も滑落のさいに岩壁で打ちつけ自力で這い上がることは出来なかった。

高田も渡辺を引き上げることは出来ず、二人を繋いでいたザイル(ロープ)を解き、渡辺は岩壁に身体をザイルで固定し、高田は救助を求めるべく一人山頂へと向かった。

この滑落地点からでは北壁を下ることは不可能で、山頂を抜けて一般ルートの西壁を降りるしか北壁から脱出する道は無かったのだ。

アイガー北壁

救援を求めて高田は暗闇の中、夜を徹して北壁の最後の三百メートルを這い登り、西壁を駆け下りた。しかし救助隊がアイガー山頂へ向かう前に、麓で渡辺の滑落死体が発見された。

渡辺は、宙ぶらりの状態でロープが身体を締め付ける苦しみから、自らの手で命綱を切ったのだと思われた。

高田光政の日本人によるアイガー北壁の初登攀はパートナーを置き去りにしたエゴイストと新聞や雑誌など多くのメディアから避難を受け、汚れた栄誉となった。しかし本当に山を知る者は高田の行動を理解していた。

アルプス三大北壁の日本人の初登攀競争は1965年、既に終わっていた。私が小学六年生の夏のことである。
しかしその後も第二登や三登、さらに未踏の岩壁を目指して多くの若者がアルプスの岩峰を目指した。
ちなみみにアイガー北壁の初登攀の高田光政はドイツの登山靴LOWAで知られる高田貿易を興し、アイガー北壁二登を成し遂げた辰野勇はモンベルの創業者である。

45年前、二人の若者がマッターホルン北壁へ挑戦し帰らぬ人となった。私がマッターホルン北壁を登攀したのはそれから9年後の1979年、25歳のときだった。

マッターホルン

この夏、マッターホルンのもう一つの出来事は、二人の日本人登山者の遭難の知らせだった。
一人は山頂直下で凍死体として、一人は東壁の麓で滑落死体として発見された。
二人の遭難者は私と同じ60代である。若い頃から山へ登り、定年退職して憧れのマッターホルンへ臨んだのか、または中高年になって登山を始めたのかは分からない。

マッターホルンは標高4478メートル、4003メートル地点にソルベイヒュッテという小さな避難小屋がある。二人の日本人はマッターホルンの一般的なルートであるヘルンリ陵から登り、登頂の前後に急激な気象の変化で嵐に襲われ避難小屋へたどり着く事が出来ずに遭難したようだ。
一人はスリップか何等かの原因で東壁側へ滑落し、一人は凍死したのだ。

私も初めてのマッターホルン北壁挑戦の時、下部氷壁を登攀中に稜線に湧いた雲が、みるみるうちに山を覆い風雪の嵐に見舞われた経験がある。その時はまだ下部だったので、すぐに退却できたが、4000メートルの山上であったなら生命の危険にさらされたであろう。

北壁下部氷壁 悪天に見舞われて撤退

北壁を脱し麓のセラック地帯の下降

二度目の挑戦の時、私はこの凍死者と殆ど同じと思われる場所で一夜を過ごした。北壁を登り終えて、マッターホルンの山頂に立ったのは深夜の1時だった。麓のヘルンリ小屋を出発したのが、前夜の2時、すでに23時間ぶっ続けの登攀だった。

マッターホルン北壁下部氷壁より中央クロワールへのトラバース

中央クロワールの登攀

山頂での感慨も束の間、ソルベイヒュッテまでたどり着けば安全に休めると暗闇の中を危険な岩稜を降った。二時間ほど下降を続けたが疲れがひどく避難小屋のソルベイヒュッテへたどり着かない。体力の消耗だけではなく判断力が低下している事を感じた私は小屋への到着を断念して岩稜の上でビバーク(野宿)を決めた。時刻は深夜3時を廻っていた。

それは寝る、というのではなく、寒さに耐えながら朝を待つという作業だった。それでも朝方近く、疲れから眠りに入った。二時間ほどの眠りで目が覚める。ダウンジャケットの上に羽織っていた風よけのナイロン袋の内側は私の吐く息や身体から発散された水分が氷となって張り付いていた。
起き上がると張り付いた氷がナイロンから剥がれて、ぱらぱらと落ちてくる。
しかし日が昇り陽光が射すと一気に気温が上昇する、下降を開始した。

ヘルンリ陵でのビバーグ

ヘルンリ陵はマッターホルンの一般的な登山ルートであるが、左右1200メートルの岩壁上の急峻な岩稜である。1865年マッターホルンの初登頂に成功したウインパー隊7名のパーティーが下降の途中に北壁側へ滑落して4人の命が奪われた。今回の日本人登山者は反対側の東壁へ滑落した。千メートルの滑り台だ。

初登頂の後、ウインパー隊の悲劇

山に悲劇はつきものであるが、遭難の話を聞くと、私は自分の幸運に感謝する。マッターホルン北壁の登攀でも、一歩どころか一センチの集中力で生死を分かつ状況が数度あった。嵐の襲来や暗闇の中での危険な登攀、自分としては冷静に、うまく、こなしたと思っているが、運があった事も間違いないだろう。

グランドジョラスの北壁登攀の時も奇跡のような偶然に助けられた。
そして、アンラッキーな帰らぬ人ともなった幾人かの仲間もいる。
二つのニュースで古い山の事をいろいろと思だした。

亡くなられたお二人と、45年ぶりに御遺体を発見された先人のご冥福をお祈りする。