ゴールデンウィークに突入したというのに、頭の片隅に桜の事が離れない。
何の桜かというと、本居宣長先生の歌、
『しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日に匂う山ざくら花』である。
間が悪いことに昨日放送のNHKドラマ「花燃ゆ」は吉田松陰の最後であった。
このドラマは礼によって作り話と思って見なければ腹が立って来るというNHKの大河ドラマのいつものパターンである。勿論ドラマであるから、作り話であるのは当然であるが。
視聴率も評判も良くないらしい。が、私はドラマとして、結構気に入っている。
そして、そんな三文ドラマでも、吉田松陰の死は唯々涙が溢れてくる。
比すことも失礼ではあるが、古い歌謡曲、西島三重子の「池上線」の歌詞が頭をよぎる。
「あとから あとから 涙あふれて 後ろ姿さえ 見えなかったわ」
私は、ドラマが終わり、最後の字幕が涙に滲んで見えなかった。
二百年の鎖国の間に世界で起こっていた産業革命と植民地主義。その餌食となる新大陸と亜細亜、アフリカの中にあって鎖国をしていた、世界の情勢に決定的に遅れていた日本が、明治維新という無血革命によって、有色人種の中、植民地支配を逃れ、西欧列強の国々に対抗した曾祖父達、そして死んでいった幾多の先祖を、桜の花散るを見て思い起こされるのである。
「一期一会」と云い「花は散るために咲く」と云う、どうも私は覚悟が足りないらしい。未練がましいのである。
「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」西行
桜が咲くと、「やまとごころ」「大和魂」の死への美学を強く感じ、それが日本を動かしてきた原動力の一つであると思えてくる。
季節の変わり目は人心を惑わすと云う、どうも春の芽吹きの精に当たったらしい。