由布岳の開山は性空上人(しょうくうしょうにん)とされている。性空上人は平安時代中期の人で敏達(びたつ)天皇の血を引く橘諸兄(たちばなのもろえ)を先祖にもつ名門に生まれた。橘諸兄は奈良時代の人で正一位、左大臣にまで登り詰め、東大寺大仏建立にも大きく関わった。
性空上人は幼少より仏縁があったが家門のため出家は遅く三十六才の時であった。天台宗慈恵大師に師事して後、日向国霧島山や筑前国背振山で三十年修行し播磨国書写山に西国三十三所霊場の一つ圓教寺を開いた。
九州の山には性空上人開山の伝承が多く残されているが由布岳もその一つである。
上人は由布岳山頂の岩窟で一千日の行を行った。 満願を迎えたとき由布岳が大音響で法華教を唱えた。上人は鳴動する岩で観音像を刻み山腹の大岩の上に祀った。その岩を観音岩という。
慶長元年(千五百九十六年)豊後を大地震が襲った。慶長豊後地震とよばれ、由布院では由布岳裾野の小山が崩壊して一集落が壊滅するほどの災害であったという。
地震のあった夜、一人の村人が由布岳の山腹に光るものをみた。翌朝光っていた所へ登ってみると観音像が転がり落ちていた。村に持ち帰り麓の寺に祀られた。それが仏山寺の秘仏として祀られている観音像である。
上記、由布岳開山の話は若い頃に読んだ本の記憶で、その本の題名も憶えていない不確かなものである。 仏山寺のホームページには以下のように紹介されている。
佛山寺の歴史
今より約一千年前の一条天皇の御代、性空上人、九州巡錫中霧島神社に参籠するに御神宣あり、その御つげによって由布岳の山腹にて誦経したらば、「具一切功徳慈眼視衆生」(観音経の一説)と鳴動する岩あり。
その岩にて観音像を刻して祀ったのが始めと伝えられる。以来、全盛時には由布院内に末寺十数ヶ寺を有する由布の修行霊場の本拠地とされてきたが慶長元年の大地震により打撃を被ったため麓の地(現在の地)に伽藍を移し、新たに臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺院として再出発した。
性空上人の刻した由布霊山観世音菩薩は今も観音堂に安置され、秘仏として三十三年に一度ご開帳される。
鹿児島霧島神宮のはずれにある性空上人墓所
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